
激しい地上戦によって多くの民間人が犠牲となっただけでなく、県内各地で集団自決という悲劇を引き起こした沖縄戦。それを知ることが出来る戦跡の一つに、ガマがあります。
そもそもガマとは何なのか
戦跡巡りの定番スポットであるガマですが、そもそもガマとはいったい何なのでしょう?
ガマの正体
ガマは、自然にできた洞窟のことです。おもに本島南部に多く存在するガマは、石灰岩で作られた鍾乳洞で、中に入るとかなりの広さがあるため、戦時中は日本軍の陣地や野戦病院として使われました。
沖縄戦におけるガマの役割
悲惨な地上戦となった沖縄では、ガマはただの自然洞窟ではなく、戦場における大きな役割を担うことになります。その役割を大きく分けると、住民の避難場所・軍事拠点・医療施設の3つになります。
日本兵によって追い出されていく避難住民たち
本島上陸によって住まいを追われることになった住民たちは、米兵から逃げるために、山や岩の間に隠れるように存在するガマに身を隠します。
ところが、同じく米兵から身を隠すために避難してきた日本兵が、住民たちが避難しているガマに入ってきます。
日本兵は、戦闘の邪魔になるという理由から、ガマ内に避難していた住民たちを別のガマに移動するように強制。武器を突き付けて退去を命ずる日本兵になすすべがない住民たちは、銃弾が飛び交う中、ガマの外に飛び出していきます。
こうした状況によって命を落とした住民も、この沖縄戦には数多くいるのです。
野戦病院としてのガマ
入り口から入ると、数百メートルにわたって奥に続くガマは、多くの傷病兵を収容する格好の場所でもありました。
そのため、激戦地となった本島南部のガマには、野戦病院として使われたガマが多く存在し、そのうちの数か所では、今でも中を見学することが出来ます。
見学ができるガマ
沖縄本島内には、平和学習を目的に見学することが出来るガマがあります。
ターガーガマ
うっそうとした亜熱帯のジャングルの中に、埋もれるようにして存在するターガーガマ。沖縄戦中は、地元に住む約8世帯の住民が避難場所としてここで過ごしていました。
全長約500mの自然洞窟で、洞内の水流をたどると、有名な観光スポットでもある玉泉洞にたどり着きます。
ターガーガマは、住民のみが入っていたガマ。日本兵が入ることがなかったということもあり、このガマ内での死者の記録は残っていません。厳しい環境の中でも住民たちは、この場所で終戦を迎えるまでの約3か月をこの場所で過ごしていました。
ガマ内には当時の遺留品が数多く残されているほか、住民たちによって作られたトイレや石積通路もあります。これらは、今でも見学時に見ることが出来ます。
ヌヌマチガマ
八重瀬町にある、全長約500mの自然洞窟です。戦時中は、近くに設置されていた第24使団第一野戦病院の分院として使われていました。
多くの傷病兵が収容されたものの、劣悪な環境の中、満足な治療を受けられず、多くの死者が出ました。そんな状況の中、ヌヌマチガマに派遣された白梅学徒隊は、彼らの治療や手術の助手、排せつ物や切断部分の処理など、過酷な任務にあたりました。
米軍の首里侵攻の一報が入った6月3日、ヌヌマチガマの野戦病院は閉鎖となり、派遣されていた白梅学徒隊は、激しい銃弾や砲弾が降り注ぐ戦場の中に放り出され、それぞれバラバラになりながら逃げることに…。
結局、最後までヌヌマチガマの野戦病院で激務を負わされていた白梅学徒隊のうち、22名もの命がこの場所で散っていきました。
チビチリガマ
読谷村にあるチビチリガマは、残波岬に向かう県道6号線沿いにある自然洞窟です。このガマの近くには、1945年4月1日に米軍が無血上陸を果たした西海岸があります。
米軍は、上陸してきたその日のうちに、チビチリガマ周辺にまで侵攻。当時、地元住民のうち約140名が、このガマに避難していました。
「生きて捕虜の辱めを受けず、罪過の汚名を残すことなかれ」とする軍国主義を強制されていた住民たちは、無血上陸の翌日である4月2日、このガマにて集団自決を図ります。
この集団自決によって、83名が死亡。この83名もの犠牲者の約6割が、18歳以下の子供であったといいます。
現在、チビチリガマの入り口には、地元で活動する彫刻家・金城實氏の「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が設置されています。
ヌチシヌジガマ
うるま市石川にある鍾乳洞が、ヌチシヌジガマです。ヌチシヌジとは、沖縄の方言で「命をしのぐ」という意味があります。その名前からわかる通り、戦時中、このガマ内には100名以上の住民が避難しています。
このガマは、集団自決の危機を乗り越え、無事生還を果たしたというガマ。
実際にこのガマも米軍に見つかり、避難住民の間では、集団自決をすべきという暗黙の認識が広がっていました。その時、集落のとりまとめ役であった区長が米軍に投降すべきだと住民たちを説得します。
とはいえ、軍国主義の教育を強制されてきた住民たちは、その説得に応じようとせず、投降を促す区長の言葉にも動こうとしません。
そこで区長は、自らガマを出ることを決意。そして住民たちには、自分が投降後に殺されたら決してガマを出ないように、と言い残してガマから出ていきます。
不安なまま、ガマの中で時を過ごす住民たちの前に、再び姿を現した区長。この区長の姿を確認した住民たちは、区長の説得に従い、ガマを脱出しました。この区長の決断は、ヌチシヌジガマでの集団自決を回避し、住民たちの命をしのぐターニングポイントとなりました。