
宮古島には、もしかしたら学校の教科書にも載っていたかもしれないものすごい英雄がいます。それが、久松五勇士。命を懸けた偉業も、わずか1時間の差で歴史の渦に埋もれました。果たして久松五勇士とは?
英雄なのに地元でもあまり知られていない久松五勇士
久松五勇士の偉業をたたえる記念碑は、宮古島にる久松漁港の裏手側にあります。その記念碑には、『久松五勇士は、日露戦争たけなわの明治三十八年五月二十五日、ロシアのバルチック艦隊が、宮古島西北洋上を通過した事を、大本営に急報すべき重大任務をおび、はかり知れぬ海上不安にとざされた波高き太平洋上を刳舟に運命を託して乗り切り、五月27日早暁、八重山通信局より、「敵艦見ゆ」の打電をなさしめ、その大任を果たした。』とあります。
これほどの大任を果たした英雄ですから、さぞや全国的にも有名なのだろうと思われるでしょう。ところが、本州はおろか、沖縄本島内でも、彼らの偉業の詳細を知る人は少ない…。なぜなら、そこには「1時間」という運命の時間が関係しているのです。
実はただの島の漁師だった久松五勇士
記念碑で功績をたたえられるほどの人物ですから、「よほどすごい政治家か軍人なのでは?」と思うでしょう。残念ながら、その予想はハズレです。
なぜなら、彼らは、島の漁師。沖縄を代表するすごい政治家でも、軍人でもありません。ただ一つ言えることは、とんでもない意志の強さと強靭な肉体を持っていた若者たちだったということ。
彼らが任されたのは、日本の危機となるロシアの艦隊・バルチック艦隊が、日本に向かって航行していることを東京の大本営に伝えるという大任。当時の日本は、日露戦争の真っただ中にあり、バルチック艦隊は敵国であるロシアが誇る最強の艦隊。それをたまたま海に出ていた宮古島の漁師が発見してしまっただけのことなのですが、日本の一大事であることを察した島の人々は、東京との通信ができる石垣島の通信施設まで、船をこいで伝達しに行くことを決意!
そうです!この伝達の大任を任されたのが、何を隠そう、宮古島の英雄である久松五勇士なのです。
とんでもない行程を突き進んだ久松五勇士
宮古島の久松漁港から石垣島の通信施設まで移動することになった、5人の島の漁師たち。ところが、彼らが乗り込んだのは、漁で使われる木造のサバニ船。もちろん、エンジンなどはついておらず、激しい荒波は手漕ぎで渡り切らなければいけません。すでにこの時点でも、恐ろしいほどの体力を消耗します。それでも彼らは、約170㎞の距離を15時間もかけて渡り切ります。
でも、本当にすごいのは、石垣島に到着してからの行程。やっとの思いで石垣島の東海岸にたどり着いても、通信施設がある八重山郵便局までは、まだ30㎞も残っています。もちろん、その道のりは険しい山道。
大幅に体力を消耗していた久松五勇士は、それでも、「日本を救うんだ」という強い信念だけで、疲れ切った体に鞭を打ち、必死の思いで30㎞もの山道を歩きぬきます。無事にたどり着いた時には、やがて夜が明けようとする午前4時。最初に艦隊の姿を見つけてから、丸3日かけた命がけの伝達が終了した瞬間でした。
ドラマのような信じられないな事実
これだけ命がけの大任を果たしたのにも関わらず、久松五勇士の名前は、日本の歴史にはその後残ることはありませんでした。なぜなら、そこに「わずか1時間」という残酷な運命が待っていたのです。
東京の大本営にバルチック艦隊の存在を伝える第一報が届いたのは、1905年5月27日午前4時45分。この時、通信を送信したのは、久松五勇士からの伝達を受けた八重山郵便局ではありません。実は、ちょうどこの時間に、三六式無線機を搭載した日本の巡洋船「信濃丸」が、偶然バルチック艦隊に遭遇。その直後に、東京の大本営に「敵艦見ゆ」の通報を送りました。くしくもこの通信が、バルチック艦隊の存在を東京に知らせる第一報に…。
実は、久松五勇士たちの電文は、八重山郵便局に伝えられたものの、その電信を那覇の郵便局本局へ打ち、さらに東京に伝えられる前にその電信は沖縄県庁を経由していたのです。だから、久松五勇士が八重山郵便局にたどり着いた時間は信濃丸の通信よりも早かったのに、結果として東京に伝わるのは信濃丸のほうが早かったというわけです。
もしも、八重山郵便局から、信濃丸同様に直接東京の大本営へつながる通信が行われれていたら、歴史は大きく変わっていました。わずか1時間の差。それが、久松五勇士と信濃丸の運命を変えた瞬間でした。
黙して語らずを貫いた久松五勇士
命がけの大任を果たしたにもかかわらず、その功績を評価されるどころか、人々の記憶にも残らないままで終わってしまった久松五勇士。でもそれは、これだけの大任を無事にやり終えたにもかかわらず、自らその偉業について語らず、静かに普段の生活に戻っていった彼らの純粋な生き方があったから、ほとんど知られないまま時間が過ぎただけのこと。
こうした寡黙な生き方を貫いた彼らの功績を世間に知らしめたのは、この事件から大分時間がたった昭和初期のこと。当時の国語の教科書の中に「遅かりし一時間」という記事が掲載されたことによって、はじめて彼らの功績が広く知られ、県知事からも顕彰されることとなります。