6月23日は「慰霊の日」でした。沖縄での組織的な戦争が終わった日として、学校や市役所も休みになり、「戦没者追悼式」が行われる祈りの日です。本土出身の私は、沖縄戦をあまりに知らないので、戦争に関わるのを避けていました。しかし、娘の学校では平和学習の時間もあります。少しずつ戦争のことを学んで行こうと思いました。
対馬丸事件とは
対馬丸事件を知っていますか?私がこの事件を知ったのは、娘の小学校の学芸会の劇でした。娘の小学校では、毎年6年生が戦争や平和に関するお話を劇にして演じています。数年前に演じられた劇が「対馬丸事件」だったのです。この劇を見るまで、対馬丸事件のことを全く知らなかった私は、とてもショックを受けました。
出航~撃沈
1941年に始まった太平洋戦争は、どんどん日本が劣勢となり、1944年に政府は、老人、女性、子供を県外に疎開させるように命令を下します。沖縄では学校単位の集団で疎開したので、学童集団疎開といいました。
子供を送り出す親たちは、海が危険であることを知っていたので、「疎開船は軍艦であること」を条件としていましたが、その時すでに日本にはその余裕がなく、作られて30年も経った貨物船の「対馬丸」が疎開船となりました。
1941年8月21日に、対馬丸を始め貨物船3隻に学童疎開、一般の疎開の人々を乗せて、2隻の護衛艦に守られて長崎に向けて出航しました。出航して27時間30分後の8月22日の午後10時12分頃、鹿児島県トカラ列島悪石島近海で、アメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷が命中し、10分ほどで沈没しました。
沈没~救出後
対馬丸の船倉には2段の棚が作られ、そこに多くの人が押し込められるように乗り込んでいました。魚雷が命中してから10分程で沈没してしまったので、多くの人が船倉に取り残されたと考えられます。
船外へ脱出できた人も、近づいてきた台風のためか、高波にのまれる人も多くいました。人々はイカダなどにつかまって生き延びようとしましたが、流される方向によって、救助される時間と場所に差が生じ、凄惨な体験をしました。
第一発見者は、長崎の佐世保大村飛行場所属のパイロットでパトロール中に偶然発見し、近くで漁を行っていた船に知らせて、救助を促しました。救助された人々は鹿児島県の山川港や鹿児島港などに運ばれて上陸しました。救助船に気づかれなかった人もいて、6日後に救助された人もいました。
命は助かっても、警察や憲兵から「決して語ってはいけない」と厳しいかん口令が敷かれ、新たな苦しみとなりました。
ここまで事前に読んでから、「対馬丸記念館」へ行きました。
対馬丸記念館に到着しました

対馬丸記念館は那覇市の海沿いにあります。あの日、多くの人々が目にした海、帰ってくるはずだった那覇の海が見渡せる場所にあります。モノレール県庁前駅から歩いて15分程、すぐ近くに波の上ビーチがあります。
建物は船に乗り込む様子をイメージしていて、1Fから屋上までの高さは海面から甲板までの高さと同じです。
入口は2階です。ビデオが上映されていて、対馬丸事件のことが良くわかります。2階は対馬丸出航から撃沈、救助までの様子が時系列に沿って展示されています。

2階から1階への階段は、対馬丸の船倉への階段をイメージしています。1階には、犠牲になった人々の名前と年齢が書かれています。
「対馬丸」には確かなデータがないのだそうです。当時はくわしい被害実態調査が行われなかったからです。
対馬丸には、疎開者(学童、一般疎開)1,661名、船員 86名、船舶砲兵隊員 41名 合計 1,788名が乗船していたとされていますが、当日乗り込むのをやめた人や嫌がる子供を無理やり乗せた人もいて、どの時点の1,661名かがわからないそうです。
犠牲となった人は、疎開者(学童)784名、訓導・世話人 30名、一般疎開 623名、船員 24名、船舶砲兵隊員 21名、合計 1,482名となっていますが、これは名前のわかった人の人数です。遺族からの申告によって増えます。ということは、遺族がいない人もいると考えられます…
0才の赤ちゃんから、多くの子供たち、70才以上のオジーやオバアの名前もありました。犠牲になった方の写真がずらっと展示されていました。でも、写真が展示されているのは25%程度だそうです。
そして、数少ない遺品が展示されています。遺品はその人の存在の証明でもありますが、対馬丸事件のあとに起きた十・十空襲によって那覇市の大半が焼失してしまいました。対馬丸に乗船していた学童の80%は那覇市の子供たちだったので、家族や学校も被災してしまい、遺品が残っていないのだそうです。
乗船した1,661名には、1,661通りの物語があり、犠牲になった1,482名の方にはそれぞれに家族や友人がいたと思われます。救助されたり、漂着したりして、生き延びることができた一割くらいの人々も、様々な思いで苦しんでいたことが容易に想像されます。
対馬丸は今でも悪石島近海の870メートルの海底に沈んでいます。その深さと船体の腐食のため、引き上げることができないそうです。